人気ブログランキング |

LISBONの店長コラム


<   2005年 10月 ( 1 )   > この月の画像一覧



初めてのブログ

a0053466_13572378.jpg

“若者たちもすなるブログというものを、おばさんもしてみむとて、するなり。それの年の十月(神無月)の二十日余り九日の未の刻に書き始める。そのよし いささかに ものを書きつく。”なんて土佐日記の冒頭文を真似てみました。 さて、何を書けばいいのかな~。
まず、ポルトガルと日本の友好の歴史をちょっと書いてみます。「そんな事知ってるよ」なんて言わないで暇があれば、呼んでみて下さい。
 1543年9月23日、両国の初めての出会いの日です。この日、3人のポルトガル人が種子島に漂着しました。彼らが伝えた鉄砲は、新しい武器として瞬く間に戦国武将のあいだに広まり、
織田信長を天下統一へと導きました。当時のポルトガルはヨーロッパ随一の海洋帝国の地位を築いていました。ポルトガル王は新たに発見した土地の住民にキリスト教を布教する義務があり、イエズス会による布教を支援していました。そこで日本に派遣された宣教師が、フランシスコ・ザビエルです。1549年6月15日に鹿児島に上陸しました。ポルトガルにとって日本は、莫大な利益が見込める貿易国であり、一方、九州の戦国大名達にとっても、ポルトガルとの貿易は藩の財政を潤すこととなるので利害関係がぴったりと合ったのです。しかし、キリスト教の布教というやっかいな問題により、その関係は徐々にねじれていくのです。貿易は歓迎するが、キリスト教布教はお断りという領主のいるなかで、大村純忠はキリスト教を歓迎。1580年には長崎港と茂木港をイエズス会に寄進するまでになったのです。一方、京都で実権を握った信長は、寺院勢力に対抗するためキリスト教を保護。京都と安土には教会も建設されました。また、大村をはじめ、豊後、有馬のキリシタン大名は4人の少年から成る天正少年使節をポルトガルに派遣。だが、この時、ポルトガルはスペインの支配下にありました。天正少年使節は、1590年に帰国。その時
活字印刷機が持ち帰られ、日本に印刷術が伝えられました。ほかにも、この時代にポルトガルが
日本に伝えたものは少なくありません。地球球体説もそのひとつだし、華やかでエキゾチックな南蛮美術も生まれました。庶民のあいだでもてはやされた風俗には、ポルトガル語を語源として日本語化しているボタン、カルタ、たばこ、シャボン、カステラなどがあり、その浸透ぶりがうかがえます。1587年両国の関係に大きな亀裂が入ります。豊臣秀吉が、伴天連追放令をだしたのです。それはイエズス会が秀吉の厚遇を受け、政治に関与。その影響力を恐れた仏僧らが扇動して、追放令に至ったといわれています。その後、ある事件がきっかけで、イエズス会、フランシスコ会の宣教師を含む26人のキリスト教信者の殉教につながっていきます。江戸時代になると、宗教抜きで貿易のみで日本と取引をしたオランダやイギリスを徳川家康が受け入れるようになり、1614年禁教令を敷き、ポルトガルと日本の関係は悪化の一途をたどることになります。
1639年幕府はポルトガル船の来航を禁止。長崎・出島でのオランダとの貿易以外、外国との通商を断ち、鎖国が完成したのです。
交渉が再開されたのは、1860年のこと。しかし、当時のポルトガルには、かつての勢いはなく、活発な商取引がされることはなかった。第二次世界大戦時、日本軍がポルトガル領チモールや
マカオを占領したため関係が悪化したが大戦の終結と共に消化された。
そして現在、ポルトガルの人々は、私たち日本人にとても友好的です。関係の深い国だからと、
よく話しかけてくれます。穏やかな気候、食べ物も日本人に合った料理がたくさんあります。是非訪れて欲しい国です。
by lisbon-jp | 2005-10-29 13:49

    
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31