LISBONの店長コラム
2013-04-12T16:05:15+09:00
lisbon-jp
コラム
Excite Blog
ポルトガル最南端アルガルヴェ地方
http://lisbonjp.exblog.jp/17609700/
2013-04-12T16:04:44+09:00
2013-04-12T16:05:15+09:00
2013-04-12T16:05:15+09:00
lisbon-jp
未分類
激しい波が刳り抜いて創り上げた無数の洞窟や海洞。夏には、多くの観光客が舟で海洞を見物するようです。]]>
切々と心に伝わる歌声~ファド-FADO
http://lisbonjp.exblog.jp/16885843/
2012-11-29T16:29:00+09:00
2012-11-29T16:31:54+09:00
2012-11-29T16:29:09+09:00
lisbon-jp
未分類
ファドはポルトガルの心を歌い上げる。「ポルトガルとポルトガル人の心を語る時に、なくてはならないもの。それがファドと呼ばれる歌にある。」。ファドは1870年頃にリスボンのアルファマ地区で生まれたといわれています。現在、ファドには、リスボンのファドとコインブラという町で歌われるファドがあります。リスボンのファドは、実らぬ恋の苦しさ、海へ出て帰らぬ恋人を待つ想い、達成されなかった夢といった、哀愁、憂いの感情、ポルトガル語で言う“サウダーデ”の心を表現しています。自分の心の奥底にあるものを切々と語り、歌い上げるものです。黒い服を身に纏った歌い手がギターラ・ポルトゲーザというポルトガル独特の、胴が円形で底が平たい12弦ギターの伴奏で歌います。毎晩、裏町のファドハウス、小さな酒場でも、プロ・近所の人達など誰かが必ず歌っています。コインブラのファドは、数多くの詩人を輩出し、ポルトガル最古であり、素晴らしい観光名所であるコインブラ大学の学生の間から生まれたものです。リスボンの裏町で歌われる悲しい旋律のファドではなく、美しい自然や青春の感傷を明るく歌い上げるのが特徴です。セレナーデを基調にした旋律を、もっぱら男性のファディストが歌います。
さて、この写真の商品は、ポルトガル大手磁器メーカーである、VISTA ALEGRE社製のFADOを歌い、伴奏する人達が描かれたコーヒーカップです。おしゃれなカップ&ソーサー、HPでご覧下さい。]]>
大航海時代の主要港 ベレン地区
http://lisbonjp.exblog.jp/13377470/
2011-08-26T14:50:00+09:00
2011-08-26T17:42:26+09:00
2011-08-26T14:50:41+09:00
lisbon-jp
未分類
観光客にとって最も印象に残るのは「発見のモニュメント」です。紺碧の海と四月二十五日橋を背景に、白く輝くモニュメント。高さ52メートルの帆船をモチーフにした塔は、港に向かって舳先をたてています。先頭に立つのはエンリケ航海王子。その後ろには、同じ時代、様々な分野を担った、航海者・学者・詩人・宣教師達の像が続いています。他国に先駆けて、ブラジル・アフリカ・東洋の果てまで、大きなネットワークを築いた人々の、希望と誇りに満ちた姿が再現されています。1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられました。そこから岸壁沿いに西へ800メートル程行くと、遠目からは中世の古城のように見える「ベレンの塔」があります。1階に水牢、2階は四方に守備の為の小塔が水辺に向かって突き出ており、その下の窓から大砲が構えています。3階は王の居室で、遠い海外拠点から帰還した船をテラスから謁見したそうです。マヌエル様式の美しい宝塔。遠い東洋やブラジルから苦難の末に故国にたどり着いた軍人・船乗り達にとって、この見事な光景は素晴らしい感動をもたらすものだったに違いありません。王族を先頭に王室の事業として数代続き、莫大な利益をもたらしたポルトガルの海外交易、開発事業には、このような気配りがあったからだと思われます。「ベレンの塔」は、1983年にユネスコ世界遺産に登録されました。
写真は「ベレンの塔」が描かれた、タイルです。]]>
ポルトガルのクリスマス
http://lisbonjp.exblog.jp/12201723/
2010-12-24T14:11:00+09:00
2011-03-01T14:34:15+09:00
2011-03-01T14:32:10+09:00
lisbon-jp
未分類
]]>
シントラのお菓子屋さんの前で
http://lisbonjp.exblog.jp/10875999/
2010-06-26T13:31:00+09:00
2010-06-26T13:34:33+09:00
2010-06-26T13:31:32+09:00
lisbon-jp
未分類
リスボンから西へ28キロほど行くと突然大きな山塊が立ちはだかる。シエラ・デ・シントラと呼ばれる標高500m程度の山々だが、海岸から近く、海と川に取り巻かれているためか絶えず霧に覆われている。濃い樹林に被われていて、あちこちに泉が湧き出している。シントラは絶好の避暑地です。町全体は王宮を中心にしっとりと落ち着いています。かつて、詩人バイロンは、この町を「この世のエデンの園」と称えた。世界遺産に登録されるのも、もっともだと思わせる町です。]]>
ロカ岬
http://lisbonjp.exblog.jp/9042215/
2009-10-01T15:14:00+09:00
2009-10-02T12:55:50+09:00
2009-10-01T15:14:28+09:00
lisbon-jp
未分類
詩人ルイス・デ・カモンイスの有名な言葉と共に、“ヨーロッパ大陸最西端の地”と刻まれた碑が立つロカ岬(Cabo da Roca)。シベリアを東の端とするユーラシア大陸の西の端です。大西洋に突き出た140mの断崖は、碑の周辺に低い塀があるのみなので、なかなか迫力があり、感動的ですらあります。岬の一角にある観光案内所ではシントラ市発行の最西端到達証明書を発行しており、名前や日付などをゴシック文字で書き入れてくれます。大西洋を吹き渡る風をうけて岬にたてば、はるばると訪れた感慨もひとしおです。]]>
代々の王妃に愛された町、今も華やかさが残るオビドス
http://lisbonjp.exblog.jp/7358109/
2008-08-01T13:06:43+09:00
2008-08-01T13:07:11+09:00
2008-08-01T13:07:11+09:00
lisbon-jp
未分類
町の歴史は、ローマ時代に海からの敵の侵入を防ぐため、砦が築かれたことにさかのぼります。その後、イスラム教徒に征服され、1148年アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)によってムーア人の支配が終わると、町の再建が行われました。1282年、ディニス王とこの町を訪れた王妃イザベルは、この小さな町の美しさに惹かれ、王妃の直轄地としました。それ以降、1834年まで、オビドスは代々王妃の直轄地となり、今なお中世のままの姿をとどめています。30分もあれば一回りできるほど小さな箱庭のような町。『谷間の真珠』と呼ばれる絵のような可愛い町。気ままに、あちらの道、こちらの小路と歩きまわってみるのが最高ですが、スタートはやはり城壁の西の門・Porta da Vilaから。イスラム時代に造られたオビドスのメインゲートです。敵の侵入を防ぐため2重のジグザグ構造になっており、内側に小さなお堂が祀られています。アーチ型の通路の内側は18世紀のアズレージョ(装飾タイル)で覆われていて、必見の価値があります。門を入ると、小さな広場。2本に分かれる道を左に進むと、オビドスの中心街のディレイタ通り(Rua Direita) 。ブーゲンビリアやゼラニウムの花で埋まった白壁の家にかこまれているこの石畳の通りには、みやげ物屋やレストランなどが並んでいる。300mほど歩くと、サンタ・マリア広場があり、町で一番大きなサンタ・マリア教会が立っています。1444年、10歳のアフォンソ5世が、従妹でもある8歳のイサベルと結婚式をあげたのがこの教会。教会内は、壁全面が17世紀のアズレージョで覆われ、内陣にはルネサンスの代表的彫刻家ニコラ・シャントレーヌによる石棺があります。教会の右手奥には市立美術館。ディレイタ通りをさらに進むと、突き当たりに小さな城があり、現在はポサーダ(古城を改築したホテル)として使われています。
オビドスみやげとして有名なのが、ジンジャというサクランボを漬け込んだ果実酒。口あたりはいいが、ワインよりアルコール度が少し高いので、ご用心。
リスボンから車で1時間半もかからないオビドス。お勧めのスポットです。
]]>
「王妃の隠し湯」・「王妃の温泉医療」の町CALDAS・DA・RAINHA
http://lisbonjp.exblog.jp/5739571/
2007-06-15T15:27:00+09:00
2007-06-17T18:37:33+09:00
2007-06-15T15:27:36+09:00
lisbon-jp
未分類
は王妃の鉱泉で有名。1484年、ジョアン二世の妃レオノールがバターリャへの旅の途中、この町を通りかかった時、道端で硫黄の匂いのする湯につかっている農民たちに出会いました。聞けばリウマチに効果があるとのこと。そこで王妃も湯につかったところ、効果てきめん。すっかり温泉が気に入った王妃は、熱心に資金集めをして、1485年に鉱泉病院を設立しました。病院である為、日本のように誰でもは入れないのですが、入口で依頼すれば、中を見学することができるようです。隣接する病院博物館には、病院の成り立ちや町の歴史に関するさまざまな資料が展示されています。
又、この町には、もとは鉱泉病院付属の森だったドン・カルロス1世公園があり、ジョゼ・マリョア美術館、陶器博物館があります。この近くに当店でも扱っていますボルダロ・ピニェイロ(B・P)社の工場があり、私がポルトガルに行った時には必ず訪れる町です。]]>
アルコバサという街
http://lisbonjp.exblog.jp/4731824/
2006-11-23T12:42:00+09:00
2006-11-23T12:46:49+09:00
2006-11-23T12:42:59+09:00
lisbon-jp
未分類
当店が、クリスマス用品として直輸入している器はアルコバサにあるベルナルダ社から届きます。
リスボンから北へ車で約2時間、街のなかをアルコア川とバサ川が流れています。2つの川が交わるのでアルコバサという名がつきました。修道院が造りだした清涼感ある街です。山々に囲まれた小さな、静かな街。
見どころは、修道院と国立ワイン博物館です。
★禁欲を旨とするシトー派サンタ・マリア修道院は、シトー派建築の特徴である簡素な建物で、内部の造りも清貧の精神が表れた質素なものです。しかし、中には、壮絶なまでの愛を貫いたペドロ王子と侍女イネス・デ・カストロの華麗な装飾を施された柩がならんで安置されています。ポルトガル彫刻の傑作といわれており、必見です。
★国立ワイン博物館は、ワイン蔵を利用して造られています。地元のワインはもちろん、マデイラ、ポルトなど各地のワインのボトルやラベル、昔使われていたワイン樽やブドウ絞り貴などの道具が展示されています。
修道院前の広場に主要な施設が殆ど集まっているような小さな街です。でも休日ともなると観光客で広場がいっぱいになります。一度は訪れてみたい街です。]]>
北ポルトガル
http://lisbonjp.exblog.jp/2985426/
2006-01-08T16:27:00+09:00
2006-07-01T12:34:55+09:00
2006-01-08T16:27:58+09:00
lisbon-jp
未分類
【コスタ・ヴェルデ】(青い海岸)
ドウロ川上流の渓谷にはブドウ畑が広がり、流域の街にはワイン工場が並んでいます。
ポルトガル発祥のこの地は、その名のとおり緑の土地です。
ポルトガル北西部のドウロ川とミーニョ川という母なる2本の川と、温暖な気候がこの地に豊穣をもたらし、芳醇なワインの産地となりました。
リスボンから北上すること300km。スペインに水源を持つドウロ川が大西洋へと注ぐ丘陵地帯に、ポルトガル第2の都市ポルトがあります。その名からも分かるように、ここがポルトガル発祥の地であり、甘く濃厚な味わいで知られるポルトワインもこの都市の名に由来しています。歴史的に説明しますと… 8世紀初頭、この地を支配していたローマ帝国が衰退し、代わって支配権を得たのはイスラム教徒のムーア人でした。997年、フランス貴族のアンリ伯爵が立役者となりイスラム勢力を駆逐し、ふたたびキリスト教徒の地となりました。彼は土地の名にちなみポントカレ伯となり、息子のアフォンソ・エンリケスがポルトガル初代の国王となりました。そして、14~15世紀の大航海時代には、リスボンと並び進出の拠点港として栄えました。大航海時代の幕を開けたエンリケ航海王子の生誕地でもあります。観光には、ドウロ川沿いの旧市街がお勧め。中世の街に迷い込んだような雰囲気が堪能できます。街歩きの後にはポルトワインの醸造所を訪ねてみるのも楽しいです。ガイア地区にはポルトワインのメーカーが50以上もあるそうです。昔ワイン樽を満載したボート(ラベーロ)が醸造所の前の河岸に着いたということですが、今は観光用のラベーロがみられるだけです。毎年6月24日の聖ジョアン祭りではラベーロのレースがみられるそうです。ポルト歴史地区は1996年世界遺産に登録されました。
バルセロスはのどかな街。ポルトガルのシンボル、赤い雄鶏はこの街で生まれました。:スペイン北西部の聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラ詣での途中、ある巡礼がこの街で無実の罪をきせられて死刑を宣告された。巡礼はサンチャゴ(聖ヤコブ)の加護を祈り、裁判官の家を訪れた。ローストチキンの昼食をとっていた裁判官に、無実の証に奇跡がおこると告げたところ、皿の上の鶏が立ち上がって鳴いた。裁判官は巡礼を無実とした。:という言い伝えがあります。毎週木曜日に開かれる露天市もおもしろいです。
ギマランイスはポルトガル初代国王アフォンソ・エンリケスの生誕の地です。アフォンソ1世ゆかりの史跡が数多くあり、歴史の重みが残っている味わいのある街です。
ブラガはブラガ県の首都。“ポルトガルの庭Jardim do Portugal”と呼ばれるほど、鮮やかな緑、色とりどりの花にあふれ、豊かな農作物、おだやかな風光に恵まれた土地です。歴史的な背景もあり、別名“祈りの街”といわれる宗教都市でもあります。教会や聖堂が数多く点在し、ブラガ郊外にある聖地ボン・ジェズスは全国から巡礼者が訪れることで知られています。
コスタ・ヴェルデにはそのほかにも小さな街があります。
☆スペインとの国境をなし、頑丈な城壁が張り巡らされたヴァレンサ・ド・ミーニョ。街の中心は星型の要塞に囲まれた旧市街です。
☆大西洋沿岸、リマ川の河口に開けた街、ヴィアナ・ド・カステロ。古くから漁港、貿易港として栄え、大航海時代に活躍した船員達はこの街出身者が多いといわれてます。この街で有名なのは巡礼祭、“ロマリア祭り”。別名“嘆きの聖母祭Festas da Senhora da Agonia”といいます。祭りは近くの嘆きのマリア教会Nossa Senhora da Agonia への宗教行列がメインとなっています。女性は黒い民族衣装を身にまとい、白いスカーフをつけ、手に花で彩られた美しい燭台を持ってこの行列に参加します。行進が終わると、町中がお祭り広場と化します。歌、民族舞踊、闘牛、花火、そして市がたつ。ポルトガル全土から巡礼者が集まるミーニョ地方最大のお祭りです。
リンドーソ。60ほども群集している高床式のとうもろこし倉庫エスピゲイロEspigueiro が有名。山あいの国境のちいさな村。
アマランテ。しばしばポルトガルを紹介する風景写真にも登場する美しい景観を持った街。
3世紀頃、愛を授ける守護聖人ゴンサーロが定住したとされており、縁結びの街としても知られているそうです。
小さいけれど、美しい町がある。そんな北ポルトガルです。
★2001年末にギマランイスの中心部歴史地区とドウロ川上流の丘陵地帯が世界遺産に登録されました。
]]>
ポルトガルという国
http://lisbonjp.exblog.jp/2979051/
2006-01-07T12:08:08+09:00
2006-01-07T12:11:52+09:00
2006-01-07T12:08:08+09:00
lisbon-jp
未分類
サウダーデ…ポルトガル人の感情や人生観を最もよく表しているポルトガル語です。懐かしさ、思い出、郷愁と訳されています。ポルトガル人に愛されている民衆の愛歌、ファドにもこの言葉が頻繁に使われていることからも分かります。南欧の明るい日差しに照らされながらも、どこか物悲しくて何か懐かしさをかもしだし、我々異国人でさえも郷愁を呼び起こすような風景がそこここで見られる国、尊大なところがなく、気取りがなく、親切な国、それがポルトガルです。
ポルトガルは北緯36°58″(茨城・栃木・群馬の県境)から42°9″(襟裳岬)、西経6°11″から9°30″にかけて位置するイベリア半島の最西端、つまりヨーロッパ大陸の最果て大西洋に開かれるように位置する国です。面積は9万1982k㎡(日本の約4分の1)、人口は1千万人弱(東京より少ない!)です。首都はLISBON。
国全体は、大きく6つの地域に分けられます。北から【コスタ・ヴェルデ】【モンターニャス】【コスタ・デ・ブラタ】【ブラ二シェス】【コスタ・デ・リスボア】【アルガルヴェ】です。この後、ゆっくりとそれぞれの地方を旅するように紹介できたらと思っています。
あまり期待しないでゆっくりお付き合いくださいね。
]]>
初めてのブログ
http://lisbonjp.exblog.jp/2428747/
2005-10-29T13:49:02+09:00
2006-03-16T17:32:06+09:00
2005-10-29T13:47:37+09:00
lisbon-jp
未分類
“若者たちもすなるブログというものを、おばさんもしてみむとて、するなり。それの年の十月(神無月)の二十日余り九日の未の刻に書き始める。そのよし いささかに ものを書きつく。”なんて土佐日記の冒頭文を真似てみました。 さて、何を書けばいいのかな~。
まず、ポルトガルと日本の友好の歴史をちょっと書いてみます。「そんな事知ってるよ」なんて言わないで暇があれば、呼んでみて下さい。
1543年9月23日、両国の初めての出会いの日です。この日、3人のポルトガル人が種子島に漂着しました。彼らが伝えた鉄砲は、新しい武器として瞬く間に戦国武将のあいだに広まり、
織田信長を天下統一へと導きました。当時のポルトガルはヨーロッパ随一の海洋帝国の地位を築いていました。ポルトガル王は新たに発見した土地の住民にキリスト教を布教する義務があり、イエズス会による布教を支援していました。そこで日本に派遣された宣教師が、フランシスコ・ザビエルです。1549年6月15日に鹿児島に上陸しました。ポルトガルにとって日本は、莫大な利益が見込める貿易国であり、一方、九州の戦国大名達にとっても、ポルトガルとの貿易は藩の財政を潤すこととなるので利害関係がぴったりと合ったのです。しかし、キリスト教の布教というやっかいな問題により、その関係は徐々にねじれていくのです。貿易は歓迎するが、キリスト教布教はお断りという領主のいるなかで、大村純忠はキリスト教を歓迎。1580年には長崎港と茂木港をイエズス会に寄進するまでになったのです。一方、京都で実権を握った信長は、寺院勢力に対抗するためキリスト教を保護。京都と安土には教会も建設されました。また、大村をはじめ、豊後、有馬のキリシタン大名は4人の少年から成る天正少年使節をポルトガルに派遣。だが、この時、ポルトガルはスペインの支配下にありました。天正少年使節は、1590年に帰国。その時
活字印刷機が持ち帰られ、日本に印刷術が伝えられました。ほかにも、この時代にポルトガルが
日本に伝えたものは少なくありません。地球球体説もそのひとつだし、華やかでエキゾチックな南蛮美術も生まれました。庶民のあいだでもてはやされた風俗には、ポルトガル語を語源として日本語化しているボタン、カルタ、たばこ、シャボン、カステラなどがあり、その浸透ぶりがうかがえます。1587年両国の関係に大きな亀裂が入ります。豊臣秀吉が、伴天連追放令をだしたのです。それはイエズス会が秀吉の厚遇を受け、政治に関与。その影響力を恐れた仏僧らが扇動して、追放令に至ったといわれています。その後、ある事件がきっかけで、イエズス会、フランシスコ会の宣教師を含む26人のキリスト教信者の殉教につながっていきます。江戸時代になると、宗教抜きで貿易のみで日本と取引をしたオランダやイギリスを徳川家康が受け入れるようになり、1614年禁教令を敷き、ポルトガルと日本の関係は悪化の一途をたどることになります。
1639年幕府はポルトガル船の来航を禁止。長崎・出島でのオランダとの貿易以外、外国との通商を断ち、鎖国が完成したのです。
交渉が再開されたのは、1860年のこと。しかし、当時のポルトガルには、かつての勢いはなく、活発な商取引がされることはなかった。第二次世界大戦時、日本軍がポルトガル領チモールや
マカオを占領したため関係が悪化したが大戦の終結と共に消化された。
そして現在、ポルトガルの人々は、私たち日本人にとても友好的です。関係の深い国だからと、
よく話しかけてくれます。穏やかな気候、食べ物も日本人に合った料理がたくさんあります。是非訪れて欲しい国です。]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/